"防人に 行くは誰が背と 問ふ人を 見るが羨しさ 物思ひもせず"
私たちは日本という国家に住む一つの家族である。由緒ある名家であるが、隣家からの不穏な影も絶えない。
かつて、この家にMISHIMAなるものが住んでいた。そして、MISHIMAなる記憶と記録は、この家にぺたりと貼りつき今も住み続けている。
私は戦後という時代に生まれ、戦争という記録で育った。しかし、実際のところ私は戦前に生まれ、三島という記録でも育った。
戦前と戦後は、白地に赤く染まる正円のように零式へ還ってくるならば、「私」の「日本」という記憶は何処から立ち現れているのだろう。
"実は私は「愛国心」といふ言葉があまり好きではない"
これは三島由紀夫として記憶されていたある人物の言葉だが、私たちはこの言葉を深く受け止める必要がある。
官能なき現在、数多の情報に漂う私たちの国家という概念は迷い家にも等しく、富を得るための幻の家に過ぎない。
果たして、この家に住み続けているMISHIMAなるものの正体とは如何なるものか。国防という夢幻を抱いた防人歌か。あるいは、無限に増殖する鏡像の余韻か。私たちはその英霊と出会うのか。